いくつか聞いているポッドキャストの1つにPodcat français facileがあります。このところ少々ご無沙汰していてiTunesが更新してくれなくなったので、こりゃいかんと久しぶりに聞きました。
すると......おやまぁ、3つに増えています。
今まで聞いていたのはintermédiaire(真ん中)になっていて、それにdébutant(初心者用)とavancé(上級者用)が加わり3段階のレベル別に発展しました。Podcat français facile : avancé(上級者用「やさしいフランス語)なんて簡単なのか難しいのかよく判らない名前です。
聞いてみました。
débutantは挨拶や動詞の活用など本当に基本的な内容です。
avancéはintermédiaireとそれほど変わりませんが、文章量が少し増えているのと、文自体の難度が上がっているあたりが上級です。intermédiaireをいつもディクテの練習に使っているのですけれど、avancéでやるのは難しそうだなと思いました。
intermédiaireとavancéはどちらも文章を2回読みます。最初はゆっくり、2回目はノーマルスピードです。今のラジオ講座応用編では速聴が取り入れられていて、速いものを聞くと普通のスピードがゆっくりに聞こえるという効果があります。français facileではこれとは逆の現象が起きます。先に遅い方を聞くので、普通の速さがなにやら早口言葉のように聞こえて可笑しくなってしまうのです。心なしか読み上げるお兄さんの口調が必死に感じられて、つい息を詰めて聞き入ります。
そう、3講座とも同じ人が一人で喋るのです。
大変ですね。これからも聞きますよ。
すると......おやまぁ、3つに増えています。
今まで聞いていたのはintermédiaire(真ん中)になっていて、それにdébutant(初心者用)とavancé(上級者用)が加わり3段階のレベル別に発展しました。Podcat français facile : avancé(上級者用「やさしいフランス語)なんて簡単なのか難しいのかよく判らない名前です。
聞いてみました。
débutantは挨拶や動詞の活用など本当に基本的な内容です。
avancéはintermédiaireとそれほど変わりませんが、文章量が少し増えているのと、文自体の難度が上がっているあたりが上級です。intermédiaireをいつもディクテの練習に使っているのですけれど、avancéでやるのは難しそうだなと思いました。
intermédiaireとavancéはどちらも文章を2回読みます。最初はゆっくり、2回目はノーマルスピードです。今のラジオ講座応用編では速聴が取り入れられていて、速いものを聞くと普通のスピードがゆっくりに聞こえるという効果があります。français facileではこれとは逆の現象が起きます。先に遅い方を聞くので、普通の速さがなにやら早口言葉のように聞こえて可笑しくなってしまうのです。心なしか読み上げるお兄さんの口調が必死に感じられて、つい息を詰めて聞き入ります。
そう、3講座とも同じ人が一人で喋るのです。
大変ですね。これからも聞きますよ。
ダリ展へ行きました。
ダリは人気があるから平日に時間をやりくりして出向くつもりでしたが、梅雨入りした以上はそうも云っていられません。(駅から随分と歩くのです)
日曜日だけど晴れたし行っちゃえ〜、と判断したのはやはり間違いだったのでしょうか。会場内はすし詰めでした。行列がちっとも進まなくて、全ての作品をそれぞれ10分近く見つめることになりました。疲れてしまって後半は何を見ても心が動かされません。失敗です。
それでも私が入った時は「中に入ると人がぎっしり」なだけでしたが、見終わって外に出ると、チケット売り場に100人を超える列ができていました。多少は見やすい時間に廻ったようです。
中学生の頃まではシュルレアリスムが好きでした。技法や思想とは関係なく、発想の面白さに惹かれていたのです。今は当時の熱情からは遠いのですが、こうして展覧会に足を運ぶと懐かしい気がします。
2004年がダリの生誕100年にあたり、世界中で展覧会が開催されています。本展もその一環です。
溶けた時計や蟻が出てきたり騙し絵みたいになっている「ダリらしい」絵は少なめで、印象派風やキュビスム風の初期作品、ニューヨーク万博のパビリオン『ヴィーナスの夢』を製作中の写真、ダリ美術館のメイ・ウエストの部屋にある唇のソファ(涎ソファという名前だとは知りませんでした。厭な名前ですねぇ)などの立体作品がたくさん出品されていて、ダリの活動全体を見渡せる構成になっていました。
終わり近くに数点出ていたファリャの『三角帽子』の衣装がとてもかわいいくて、 着たい! 着ないけど! とここはしっかり見てきました。
ショップも大盛況。涎ソファや蟻のぬいぐるみ、溶けた時計消しゴムなどいつになく楽しいグッズが並んでいました。展覧会のアイコンになっているダリ髭のステッカーが気になりましたが、さんざん迷った末に却下。顔に貼ってみたかったのですよ...。
人に揉まれてよれよれになって帰りました。
ダリの作品はまだ掲載できませんから、今日は美術展のお話なのに地味になってしまいました。
ダリは人気があるから平日に時間をやりくりして出向くつもりでしたが、梅雨入りした以上はそうも云っていられません。(駅から随分と歩くのです)
日曜日だけど晴れたし行っちゃえ〜、と判断したのはやはり間違いだったのでしょうか。会場内はすし詰めでした。行列がちっとも進まなくて、全ての作品をそれぞれ10分近く見つめることになりました。疲れてしまって後半は何を見ても心が動かされません。失敗です。
それでも私が入った時は「中に入ると人がぎっしり」なだけでしたが、見終わって外に出ると、チケット売り場に100人を超える列ができていました。多少は見やすい時間に廻ったようです。
中学生の頃まではシュルレアリスムが好きでした。技法や思想とは関係なく、発想の面白さに惹かれていたのです。今は当時の熱情からは遠いのですが、こうして展覧会に足を運ぶと懐かしい気がします。
2004年がダリの生誕100年にあたり、世界中で展覧会が開催されています。本展もその一環です。
溶けた時計や蟻が出てきたり騙し絵みたいになっている「ダリらしい」絵は少なめで、印象派風やキュビスム風の初期作品、ニューヨーク万博のパビリオン『ヴィーナスの夢』を製作中の写真、ダリ美術館のメイ・ウエストの部屋にある唇のソファ(涎ソファという名前だとは知りませんでした。厭な名前ですねぇ)などの立体作品がたくさん出品されていて、ダリの活動全体を見渡せる構成になっていました。
終わり近くに数点出ていたファリャの『三角帽子』の衣装がとてもかわいいくて、 着たい! 着ないけど! とここはしっかり見てきました。
ショップも大盛況。涎ソファや蟻のぬいぐるみ、溶けた時計消しゴムなどいつになく楽しいグッズが並んでいました。展覧会のアイコンになっているダリ髭のステッカーが気になりましたが、さんざん迷った末に却下。顔に貼ってみたかったのですよ...。
人に揉まれてよれよれになって帰りました。
ダリの作品はまだ掲載できませんから、今日は美術展のお話なのに地味になってしまいました。
梅雨入りです。
少しばかり予定の変更を余儀なくされることはありますが、雨降りは嫌いではありません。静かに立ち上ってくる土の匂い、草の匂いは良いものです。蝸牛が目につくのもこの頃です。
外へ出る用事はなるべく1度にまとめて、家の中で過ごす時間が増えます。格別大きな何かをするわけではありませんが、有意義に過ごしたいとは思っています。
季節の折々に開く『鏑木清方随筆集』(岩波文庫)。
美人画・風俗画に抜きん出た日本画家の清方は、名随筆家でもあります。この本は元旦から大晦日まで季節の流れに沿って編まれたもので、四季のある日本での暮らしの良さを心ゆくまで堪能できます。彼が生きたのはまだ江戸の空気がほんのり残る明治の世で、その作品と同様に文章にも情緒が滲みます。
梅雨入りの発表があった日、「梅雨」の項を読みました。
清方によればこの時季は、
ふだんつい億劫になって繙きかねていた本など取り出すに極めて好適
......だそうです。秋の夜長や冬ごもりの日々だけではないのですね。
それでは気にかけたまま長く放ってある大作に取りかかりましょうか。でも梅雨の間に読んでしまわないと、夏が来てしまったらまた放り出すことになります。迂闊なことはしない方が良いでしょうか。老眼だという清方もこう書いていますもの。
果たしてどれだけのページが繰れるだろうか。
ところで今気がつきましたが、この本、また絶版なのですね。
私は大好きな泉鏡花の小説にたくさん挿絵を描いた人として清方を知り、実際に絵を見てそのすっきりと清潔な風俗画が好きになりました。それから間を置かずに本書の存在を知りましたがやはり絶版で、読む機会をず〜っと待っていました。
感動の対面は2005年のことです。年に2回ある「岩波文庫の一斉重版」という企画で蘇りました。すかさず購入して愛読書となったのですが......そうですか、もう売られていないのですね。良い本ですから何年かしたらまたぜひ復活していただきたいものです。
少しばかり予定の変更を余儀なくされることはありますが、雨降りは嫌いではありません。静かに立ち上ってくる土の匂い、草の匂いは良いものです。蝸牛が目につくのもこの頃です。
外へ出る用事はなるべく1度にまとめて、家の中で過ごす時間が増えます。格別大きな何かをするわけではありませんが、有意義に過ごしたいとは思っています。
季節の折々に開く『鏑木清方随筆集』(岩波文庫)。美人画・風俗画に抜きん出た日本画家の清方は、名随筆家でもあります。この本は元旦から大晦日まで季節の流れに沿って編まれたもので、四季のある日本での暮らしの良さを心ゆくまで堪能できます。彼が生きたのはまだ江戸の空気がほんのり残る明治の世で、その作品と同様に文章にも情緒が滲みます。
梅雨入りの発表があった日、「梅雨」の項を読みました。
清方によればこの時季は、
ふだんつい億劫になって繙きかねていた本など取り出すに極めて好適
......だそうです。秋の夜長や冬ごもりの日々だけではないのですね。
それでは気にかけたまま長く放ってある大作に取りかかりましょうか。でも梅雨の間に読んでしまわないと、夏が来てしまったらまた放り出すことになります。迂闊なことはしない方が良いでしょうか。老眼だという清方もこう書いていますもの。
果たしてどれだけのページが繰れるだろうか。
ところで今気がつきましたが、この本、また絶版なのですね。
私は大好きな泉鏡花の小説にたくさん挿絵を描いた人として清方を知り、実際に絵を見てそのすっきりと清潔な風俗画が好きになりました。それから間を置かずに本書の存在を知りましたがやはり絶版で、読む機会をず〜っと待っていました。
感動の対面は2005年のことです。年に2回ある「岩波文庫の一斉重版」という企画で蘇りました。すかさず購入して愛読書となったのですが......そうですか、もう売られていないのですね。良い本ですから何年かしたらまたぜひ復活していただきたいものです。
彼女は花を掲げ持ち、漠然とながら、
たいていは不吉な理想を求めている。
天才も聖人さえも足下に踏みつけにしつつ、
彼女は歩む。
彼女は舞う。
ギュスターヴ・モロー(藤田尊潮 訳)
ギュスターヴ・モローに関する本で必ず参考文献として挙げられ、また引用される基本書物に
『L'Assembleur de rêves(夢を集める人)』
という1冊があります。これはモロー自身が作品について書いたものとしてよく知られていて、モロー好きの端くれとしては興味を持たずにはいられません。けれどもフランス語の本ですし、そう易々と入手できるものではありません。仮に手に入ったとしても読みこなす自信は無く、ただどんなものか1度見てみることが出来ればと思っていました。
そんな風にぼんやりと憧れていた本が日本語になって山と積まれているのを見た時の驚きといったら! 『ギュスターヴ・モロー 自作を語る画文集 夢を集める人』(八坂書房)ですって!
なんで? なんで今頃?
結果から申し上げますと、『L'Assembleur de rêves』の純粋な邦訳ではありませんでした。でも中心になっているのはあの本で、それ以外の場も含むものの全てがモローの文章だけで構成された本です。唐突な出会いでしたが、こうして日本語で読めるとはなんという倖いでしょう。
いわゆる芸術論、絵画論ではなく個々の作品についてこれほど細かに語っている人も珍しいのではないでしょうか。絵のテーマや技法、自らの思想を熱く主張するようなことは殆どなく、画面に何が描かれているのかを隅々まで解説する文章です。これはモローの創作の大きな支えになったお母様が耳を悪くされていて、彼女に筆談で作品を説明するためのメモが元になっているからだそうです。そう云われてみればなるほどと頷く客観性で、描いた本人だけあって実に巧い説明です。
本書は画文集になっていて、どの文章も絵と共に味わうことが出来ます。たくさんの絵がごく一部を除いてカラーで収録されているのも嬉しいです。
冒頭に引用したのは『サロメ』に関する文です。
モローが好きという人にしかお薦めできませんが、いやぁ、これは良い本です。
たいていは不吉な理想を求めている。
天才も聖人さえも足下に踏みつけにしつつ、
彼女は歩む。
彼女は舞う。
ギュスターヴ・モロー(藤田尊潮 訳)
ギュスターヴ・モローに関する本で必ず参考文献として挙げられ、また引用される基本書物に『L'Assembleur de rêves(夢を集める人)』
そんな風にぼんやりと憧れていた本が日本語になって山と積まれているのを見た時の驚きといったら! 『ギュスターヴ・モロー 自作を語る画文集 夢を集める人』(八坂書房)ですって!なんで? なんで今頃?
結果から申し上げますと、『L'Assembleur de rêves』の純粋な邦訳ではありませんでした。でも中心になっているのはあの本で、それ以外の場も含むものの全てがモローの文章だけで構成された本です。唐突な出会いでしたが、こうして日本語で読めるとはなんという倖いでしょう。
いわゆる芸術論、絵画論ではなく個々の作品についてこれほど細かに語っている人も珍しいのではないでしょうか。絵のテーマや技法、自らの思想を熱く主張するようなことは殆どなく、画面に何が描かれているのかを隅々まで解説する文章です。これはモローの創作の大きな支えになったお母様が耳を悪くされていて、彼女に筆談で作品を説明するためのメモが元になっているからだそうです。そう云われてみればなるほどと頷く客観性で、描いた本人だけあって実に巧い説明です。
本書は画文集になっていて、どの文章も絵と共に味わうことが出来ます。たくさんの絵がごく一部を除いてカラーで収録されているのも嬉しいです。
冒頭に引用したのは『サロメ』に関する文です。
モローが好きという人にしかお薦めできませんが、いやぁ、これは良い本です。
ギュスターヴ・モローは一番好きな画家です。緻密な線と饒舌な闇の色で聖書や神話を題材に描くモローは、印象派時代のフランスに生きた人だとは信じ難い個性を放っています。
最初に惹かれたのはサロメを取り上げた一連の作品で、ワイルドが好きなこともあってたちまち夢中になりました。中でも右に掲げました『出現』にはたいへん衝撃を受けました。ヘロデ王の前で踊るサロメの前に、踊った後で王に望むはずの洗礼者ヨハネの首が幻影となって現れます。なんと鮮烈な美しさでしょう。ルーヴル美術館が所蔵しているそうですが、もしもルーヴルが「好きなものを1つ差し上げましょう」と云ってくださったら迷わずこの絵を所望します。
本物を見る機会は滅多にありませんので、もっぱら画集で鑑賞しています。お気に入りの1冊は1995年のモロー展の図録です。解説がしっかりしていて読み出があります。実はこれ、展覧会を見た記憶は無いのです。国立西洋美術館で開催されていて、他は京都へ巡回しただけのようです。京都の方が近いので行ったとすればそちらですが、そんな昔に美術展を見るために旅行をしたとは考えられません。どこかで図録だけ手に入れたのでしょうか。どうしてこれを持ってるのかなぁ、と開く度に首を傾げます。
もう1冊は『GUSTAVE MOREAU』これを買った時のことは忘れられません。
パリへ行けたのは留学中の知人が招いてくれたためにやっとこさ旅行の許可を取り付けたためで、再び訪れることは無いだろうと美術館を目一杯廻りました。モロー美術館はその中の1つです。
1階の売店でたくさんのポストカードを選んでいる時に、一際大きなこの本に目を留めました。一抱えもあるような立派な画集で、もちろんお値段も立派なものです。普段であればこれほど高価な本を買うことはありませんが、なにしろ旅の空の下。訪問者が私と知人だけという贅沢な(あるいは少々不安な)鑑賞をさせていただいたことですし、記念に奮発することにしました。
その時売店に立っていたおじさまは、初老の紳士と歓談中でした。「しるゔぷれ」と画集を差し出すと、おじさまは傍らの紳士を指して「やあ、これは彼が書いたんだよ」
......C'est vrai ?
たった一言とは云えよくぞフランス語が出てきたものです。本当にびっくりしました。著者に会うという体験をしたのはあれが初めてです。紳士はにこやかに画集を開くとサインとメッセージを書いてくださいました。本は宝物になりました。
けれどもあの時驚いたのは、自分が買おうとした本を書いた人がたまたまその場にいた、という偶然に対してでした。当時はモローが好きと云っても絵を眺めるだけで、画家自身についてや学術面での知識はまったくありませんでした。サインをいただいたおかげで興味が増し、帰ってから様々な本を読んで戦慄しました。ピエール=ルイ・マチュー氏とは、その方面では知らぬ者のいないモロー研究の権威だったのです!
そんな偉大な人と遭遇していたのですよ。それなのに私が話したことといったら「じぇいむ もろー。めるしー むしゅー、めるしー」。
うわー!(隠れる穴を掘りながら)
今だったらもう少しましなお話が出来るのにと思う反面、ああいう瞬間的な感情は母国語でなければ表現しきれないなと感じます。あの驚きはC'est vrai ? なんてものではありませんでした。本当は日本語でこう云うべきだったのです。
「マジすか!?」
✩『出現』の画像はArt Renewal Centerよりお借りいたしました。
なぜかルーヴルには見当たらないのです。
パリ木の十字架少年合唱団の歴史をへんてこりんな日本語に変換しつつ読む試みが、とうとう完結の運びとなりました。うっかり立ち寄ったために変なものを読む羽目になってしまった皆様へ、心からのお詫びと感謝を申し上げます。
こんな有様ですが私だけは楽しんでいまして、次は何にしようかなと懲りずに考えています。これも一種の「下手の横好き」ですね。
Historiqueのページを読む全5回の最後は、右下部の上から5行目より最後までです。原文はこちらです。
✩試訳✩
音楽と発声の訓練は3人の教師によってしっかり行われます。そこには多声音楽の授業、ソルフェージュ、個々あるいは集団での歌のレッスンが含まれます。子供たちは準備期間を終えてからしか旅に参加しません。教師たちはツアーの間彼らに目を配り、よく調整されているけれど生徒たちにある程度の規律を求める半日型に従って授業を免除します。合唱団員の生活は第3学年が終わると終了します。その後の学業は自分が選んだ学校で続けられます。僅かな時間のノスタルジーはすぐに乗り越えられるものですが、この出発に伴うのかもしれません。けれども合唱団員は、経験と特別な精神の広がりに富んだ新しい生き方に近づくのです。
フランスの偉大な作曲家ダリウス・ミヨーはこう書いています。
「パリ木の十字架少年合唱団の養成所は信仰、根強さ、熱狂、そして才能の奇跡である」
この奇跡とはおそらく、ごくシンプルなもので、リレー競走の「バトン」のように代々伝えられる「パリ木」という精神によるものです。どんな発展が必要であっても精神は同じところにあります。今日の少年合唱団は昨日の合唱団と奇妙なほど似ています。明日の合唱団とも。
白いローブに身を包んだ名も知れぬ少年たちが、ほぼ100年前からパリ木の十字架少年合唱団という大きな家族を作り上げているのです。
(おわり)
おしまいです! おしまいです!
難しいのは今日の部分の上から3行目、Des professeurs~ の文です。une formuleに「de mi-temps」と「bien rodée」と「qui exige des élèves une certaine discipline」の3つが掛かっていると考えて良いでしょうか。そんなにたくさんひっつけては訳せません。
これの少し後のノスタルジー云々もなめらかではありませんね。
それから下から4行目、Les Petits Chanteurs d'aujourd'hui~ の文にあるhierとdemainは「昨日、明日」より「過去、未来」にした方が意味がよく通るかなと迷いました。
今回訳していて重大なことに気付きました。
パリ木の正式名称は「Les Petits Chanteurs à la Croix de Bois」。訳しながら何度も目にしましたし、それ以前からこのフランス語の名前は知っていました。
ところがよくよく見ると「Paris」ってどこにも入っていないのです。ただの「木の十字架少年合唱団」です。でも日本ではずっと「パリ木の十字架少年合唱団」と呼ばれています。
理由をこう推測しました。聖歌隊や少年合唱団の名前には通常、所在地の名や所属する教会、大学の名前が入ります。でもそのどれも付かないパリ木は名前だけではどこの合唱団か判りません。フランスでは歴史ある有名な合唱団でも日本では一部の人しか知りませんから、パリと付け加えたのではないでしょうか。
さんざんパリ木と云っておきながら、どうして今まで何とも思わなかったのでしょう。ちょっと恥ずかしいですよ。
Historiqueのページはパソコンで見るとたった1画面なのに、訳すのに2週間もかかりました。これぐらい寝ながらでも読めるようになりたいです。
今までのを読み返して、これからは何があっても出来の悪い翻訳ソフトを笑わないようにしようと誓いました。(神妙な面持ちで)
日本語力に問題があるのかな......。
こんな有様ですが私だけは楽しんでいまして、次は何にしようかなと懲りずに考えています。これも一種の「下手の横好き」ですね。
Historiqueのページを読む全5回の最後は、右下部の上から5行目より最後までです。原文はこちらです。
✩試訳✩
音楽と発声の訓練は3人の教師によってしっかり行われます。そこには多声音楽の授業、ソルフェージュ、個々あるいは集団での歌のレッスンが含まれます。子供たちは準備期間を終えてからしか旅に参加しません。教師たちはツアーの間彼らに目を配り、よく調整されているけれど生徒たちにある程度の規律を求める半日型に従って授業を免除します。合唱団員の生活は第3学年が終わると終了します。その後の学業は自分が選んだ学校で続けられます。僅かな時間のノスタルジーはすぐに乗り越えられるものですが、この出発に伴うのかもしれません。けれども合唱団員は、経験と特別な精神の広がりに富んだ新しい生き方に近づくのです。
フランスの偉大な作曲家ダリウス・ミヨーはこう書いています。
「パリ木の十字架少年合唱団の養成所は信仰、根強さ、熱狂、そして才能の奇跡である」
この奇跡とはおそらく、ごくシンプルなもので、リレー競走の「バトン」のように代々伝えられる「パリ木」という精神によるものです。どんな発展が必要であっても精神は同じところにあります。今日の少年合唱団は昨日の合唱団と奇妙なほど似ています。明日の合唱団とも。
白いローブに身を包んだ名も知れぬ少年たちが、ほぼ100年前からパリ木の十字架少年合唱団という大きな家族を作り上げているのです。
(おわり)
おしまいです! おしまいです!
難しいのは今日の部分の上から3行目、Des professeurs~ の文です。une formuleに「de mi-temps」と「bien rodée」と「qui exige des élèves une certaine discipline」の3つが掛かっていると考えて良いでしょうか。そんなにたくさんひっつけては訳せません。
これの少し後のノスタルジー云々もなめらかではありませんね。
それから下から4行目、Les Petits Chanteurs d'aujourd'hui~ の文にあるhierとdemainは「昨日、明日」より「過去、未来」にした方が意味がよく通るかなと迷いました。
今回訳していて重大なことに気付きました。
パリ木の正式名称は「Les Petits Chanteurs à la Croix de Bois」。訳しながら何度も目にしましたし、それ以前からこのフランス語の名前は知っていました。
ところがよくよく見ると「Paris」ってどこにも入っていないのです。ただの「木の十字架少年合唱団」です。でも日本ではずっと「パリ木の十字架少年合唱団」と呼ばれています。
理由をこう推測しました。聖歌隊や少年合唱団の名前には通常、所在地の名や所属する教会、大学の名前が入ります。でもそのどれも付かないパリ木は名前だけではどこの合唱団か判りません。フランスでは歴史ある有名な合唱団でも日本では一部の人しか知りませんから、パリと付け加えたのではないでしょうか。
さんざんパリ木と云っておきながら、どうして今まで何とも思わなかったのでしょう。ちょっと恥ずかしいですよ。
Historiqueのページはパソコンで見るとたった1画面なのに、訳すのに2週間もかかりました。これぐらい寝ながらでも読めるようになりたいです。
今までのを読み返して、これからは何があっても出来の悪い翻訳ソフトを笑わないようにしようと誓いました。(神妙な面持ちで)
日本語力に問題があるのかな......。
すっかりお世話になりっぱなしのパリ木の十字架少年合唱団。6月3日にFrance2の『le Jour du Seigneur(主日:キリスト教での日曜日のこと)』という番組で放送されたミサの様子を、番組サイトで見ることができます。コンサートではなくミサを見るなど日本にいては出来ませんから、これは嬉しいです。神父様のお話も聞けますよ。全然解りませんが......。
番組丸ごと、47分間が公開されています。時間が経つとリンク切れになるかもしれませんので、よろしければお早めにご覧ください。
ちっとも読み終わらないHistoriqueはこれで4回目です。今日は左側の下から10行目、空いた行の後ろから右下部の上から4行目までです。
原文はこちらです。
✩試訳✩
1953年にドイツのケルンで「教会復帰会議」が行われます。それから新たに1954年にローマ、1956年にパリ、1958年にルルド、1961年にはローマでも。
教皇ヨハネ23世は木の十字架少年合唱団を「私の小さな平和使節」と呼びます。
1963年にマイエ猊下が世を去り、師を失った合唱団が残されます。
彼の助手、デルシンヌ神父が後を継ぎます。彼は1978年に亡くなるまでの15年間、マイエ猊下の示した方針に基づき見事に、そして決然と養成所を指導してゆくのです。
合唱団はその後、彼らの最初のやり方である集団指導に戻りました。
合唱団の本拠地はクレピー・アン・ヴァロワの近く、グレーニュにあります。パリからおよそ50kmの緑あふれる所です。
そこでは100人ほどの子供たちが、家庭的雰囲気の中で寄宿舎生活を送っています。彼らはそこでCM1から第3学年まで(日本の小4〜中3に相当)の正規のカリキュラムに合った一般教育を受けます。
(つづく)
マイエ神父、死す!
顔馴染みになった気でいたので悲しいです。「レクイエム」を歌わなくちゃ。
......そうではなくて、この最初の段落はいったい何のことなのでしょう。Congrès de la réconciliationとは何ですか。各地で何の会議をしたのですか〜。
出だしでつまずきましたが、それ以降はわりと訳せているのではないでしょうか。
あ、だんだん自信が無くなってきましたよ......。
番組丸ごと、47分間が公開されています。時間が経つとリンク切れになるかもしれませんので、よろしければお早めにご覧ください。
ちっとも読み終わらないHistoriqueはこれで4回目です。今日は左側の下から10行目、空いた行の後ろから右下部の上から4行目までです。
原文はこちらです。
✩試訳✩
1953年にドイツのケルンで「教会復帰会議」が行われます。それから新たに1954年にローマ、1956年にパリ、1958年にルルド、1961年にはローマでも。
教皇ヨハネ23世は木の十字架少年合唱団を「私の小さな平和使節」と呼びます。
1963年にマイエ猊下が世を去り、師を失った合唱団が残されます。
彼の助手、デルシンヌ神父が後を継ぎます。彼は1978年に亡くなるまでの15年間、マイエ猊下の示した方針に基づき見事に、そして決然と養成所を指導してゆくのです。
合唱団はその後、彼らの最初のやり方である集団指導に戻りました。
合唱団の本拠地はクレピー・アン・ヴァロワの近く、グレーニュにあります。パリからおよそ50kmの緑あふれる所です。
そこでは100人ほどの子供たちが、家庭的雰囲気の中で寄宿舎生活を送っています。彼らはそこでCM1から第3学年まで(日本の小4〜中3に相当)の正規のカリキュラムに合った一般教育を受けます。
(つづく)
マイエ神父、死す!
顔馴染みになった気でいたので悲しいです。「レクイエム」を歌わなくちゃ。
......そうではなくて、この最初の段落はいったい何のことなのでしょう。Congrès de la réconciliationとは何ですか。各地で何の会議をしたのですか〜。
出だしでつまずきましたが、それ以降はわりと訳せているのではないでしょうか。
あ、だんだん自信が無くなってきましたよ......。

ヴァレリー・ラルボーの『幼なごころ』(岩波文庫)です。なんかおもしろそうと気軽に手に取ったら、そんじょそこらにはないような素晴らしい本だったのです。
8歳から14歳までの少年少女を主人公にした10の短篇が収録されています。子供たちのお話ですが、子供向けという感じはしません。むしろ大人がそっと読んで宝物にする本だと思います。
子供時代という物はかくも濃密な一瞬一瞬の集まりでできている。その甘やかな残酷が突風となって胸を駈け抜けるのです。
少年が主人公のお話には、著者ラルボーの幼少期が重なります。
少女が主人公のお話を読むと、男性であるラルボーがどうしてこの年頃の女の子をここまで理解できるのかと驚嘆します。それは太宰治が『女生徒』で少女の心を見事に掬い取ったのに似ています。
もしもここに出てくる少女たちと同じ年頃に読んでいたら、気持ちがあまりに近過ぎて好きになれなかったかもしれません。
これらのささやかな掌編は、文学史に燦然と輝く類いの物ではありません。
それではどう捉えれば良いのでしょう。愛読する、大事にする、敬愛する......どの言葉もしっくりこないと考え込んでいたら、解説で堀江敏幸さんが(こういう場で好きな作家の文章に遭遇できるのは嬉しいものです)こう書いておられました。
ただ読んで慈しむ以外、どのような享受の仕方もありえない
そうです、「慈しむ」です。この小さな文庫1冊を、読んだ誰もが慈しむことでしょう。
けれども表紙に書かれた紹介文によれば、ラルボー自身は「20世紀初頭の忘れられた小説家になりたい」と願っていたそうです。
そう仰られても、読んでしまえば忘れようとして忘れられるものではないのですよ。
ラルボーさん、あなたはそういう本をお書きになったのです。
以前にも何度か触れた『プライスコレクション 若冲と江戸絵画展』。後期の展示になったしそろそろ行こうかなと思っているうちに、行かなきゃ終わっちゃう! と焦る事態になりました。もっと計画性を持ちましょう。
あと数日しかないにも拘らず、会場は空いていました。今頃は皆さん、京都の『若冲展』へ動植綵絵を見にいらしているのでしょうか。いいなぁ。
こちらは結局、前期も後期も行列することなくじっくり見ることができて幸いでした。
前回見た時に大好きだった長沢蘆雪の『白象黒牛図屏風』が不動の1位を獲得。これでもう見納めかと思うと名残惜しく、全部見た後に戻って再度眺めてきました。
今回初めて見た作品の中で強く印象に残ったのは、森徹山の『松に鶴図屏風』です。

これは左隻です。クリックしていただくともう少し大きい画像が出ます。
右隻の右端前面に松があって、その遥か後方からたくさんの鶴が飛んできています。この何羽いるのか判らない鶴たちは、前の方にいるのだけが彩色されていて、後ろに小さく描かれた飛来中の鶴は薄い輪郭だけなのです。
この描き方を見て、降り立った鶴と空の彼方の鶴とのコントラストに感心しました。距離感や飛んでくる時間を強調しているように見えたのです。こういう表現方法があるのかと勉強した気でいたら、なんてこった! これは未完の作品だったのです。画家の絶筆と考えられているそうです。
それでは本当は全部の鶴に色がつくはずだったのですね......このままでも良いと思うのですけれど。
他にもたくさん気に入った作品がありましたが、ほとんどが鳥や動物を描いた物です。
『白象黒牛図屏風』と同じぐらい好きだったのが、円山応挙の『懸崖飛泉図屏風』。

うわぁ、小さい。どうぞ大きい画像をご覧ください。
人里離れた霧深い景色に、番(つがい)の鹿が現れたところです。
これがその鹿です。
矛盾した云い方になりますが、静寂が聞こえるような絵です。見ているとこの静けさの中に取り込まれるような気がします。
それなのに、図録では鹿がちょうどページの境目に来ていて良く見えないのです。なんて残念なことでしょう。これも『白象黒牛図屏風』のように観音開きの大きなページになっていたらと思いました。
それから『麦雀図小襖』も気に入りました。松村景文という知らない名前の画家ですが、雀が一生懸命飛んでいる姿に心を捕らえられました。

小襖という画面の小ささも好ましいです。裏は雀が1羽だけ飛んでいるのですよ。
この春は日本美術の展覧会が多く、足を運びました。1番はこのプライスコレクションでした。
プライスさん、ありがとうございます。
✩画像は全て展覧会公式ブログよりお借りいたしました。
あと数日しかないにも拘らず、会場は空いていました。今頃は皆さん、京都の『若冲展』へ動植綵絵を見にいらしているのでしょうか。いいなぁ。
こちらは結局、前期も後期も行列することなくじっくり見ることができて幸いでした。
前回見た時に大好きだった長沢蘆雪の『白象黒牛図屏風』が不動の1位を獲得。これでもう見納めかと思うと名残惜しく、全部見た後に戻って再度眺めてきました。
今回初めて見た作品の中で強く印象に残ったのは、森徹山の『松に鶴図屏風』です。

これは左隻です。クリックしていただくともう少し大きい画像が出ます。
右隻の右端前面に松があって、その遥か後方からたくさんの鶴が飛んできています。この何羽いるのか判らない鶴たちは、前の方にいるのだけが彩色されていて、後ろに小さく描かれた飛来中の鶴は薄い輪郭だけなのです。
この描き方を見て、降り立った鶴と空の彼方の鶴とのコントラストに感心しました。距離感や飛んでくる時間を強調しているように見えたのです。こういう表現方法があるのかと勉強した気でいたら、なんてこった! これは未完の作品だったのです。画家の絶筆と考えられているそうです。
それでは本当は全部の鶴に色がつくはずだったのですね......このままでも良いと思うのですけれど。
他にもたくさん気に入った作品がありましたが、ほとんどが鳥や動物を描いた物です。
『白象黒牛図屏風』と同じぐらい好きだったのが、円山応挙の『懸崖飛泉図屏風』。

うわぁ、小さい。どうぞ大きい画像をご覧ください。
人里離れた霧深い景色に、番(つがい)の鹿が現れたところです。
これがその鹿です。矛盾した云い方になりますが、静寂が聞こえるような絵です。見ているとこの静けさの中に取り込まれるような気がします。
それなのに、図録では鹿がちょうどページの境目に来ていて良く見えないのです。なんて残念なことでしょう。これも『白象黒牛図屏風』のように観音開きの大きなページになっていたらと思いました。
それから『麦雀図小襖』も気に入りました。松村景文という知らない名前の画家ですが、雀が一生懸命飛んでいる姿に心を捕らえられました。

小襖という画面の小ささも好ましいです。裏は雀が1羽だけ飛んでいるのですよ。
この春は日本美術の展覧会が多く、足を運びました。1番はこのプライスコレクションでした。
プライスさん、ありがとうございます。
✩画像は全て展覧会公式ブログよりお借りいたしました。
昨日から梅雨と間違えて台風が来てしまったかと思うような荒れっぷりでした。雷で足下がビリビリするのです! こんなにすごい雷なら撃たれた拍子にフランス語がペラペラになったりしないかしら、と間の抜けたことを考えながら、パリ木の十字架少年合唱団の歴史を読む3回目です。
数日に1回の割合で書いているのは、他のお話とのバランスを取っているなどという気の利いた理由ではなく、1回分を訳すのに3日も4日もかかっているからです。今日のは難しかったですよ〜。学習用の教材ではないのに、どうして回を追うごとに難しくなるのでしょう。
原文はこちら、左側のブロックの最初から21行目(1行空くところの手前)までです。
✩試訳(改訂版)✩
マイエ神父は養成所を国境の外へと連れ出します。始めは隣国へ、そして1931年には、その時代としては驚くべき勇敢さで北アメリカへ。
少年合唱団はアメリカ、カナダで熱狂的な歓迎を受けます。これが海外遠征の始まりです。
それ以来彼らは始終世界を巡るようになります。80か国を訪問し、世界ツアーを4回です。
1939~45年の戦争(第二次世界大戦)は少年合唱団にとって、あらゆる人々と同じく、苦しみと死を伴う長い試練の時代です。けれども1945年に再び平和が訪れると、マイエ神父はすぐに少年合唱団の役割を活気づけ、拡大しようと率先して行動を起こします。これらのことは何年も前から、しばしば合唱団が知らない間にライバルを生んでいました。フランスや外国で町から町へと彼らが通過した後、少年合唱のグループは自然に自分たちのイメージを作り出していました。それら新しい “養成所” はマイエ神父に助けを求めていました。
そこで彼は世界少年合唱連盟の設立を決意します。それはすべてのグループを集め、同じ理想に駆り立てられた全少年合唱団に開かれることになります。その動きは大きな広がりを見せ、世界中から参加があります。
1949年、15か国3000人の子供たちがローマに集まります。そこでは教皇ピオ12世が、彼らのためにサン・ピエトロ大聖堂で特別にミサをあげます。1951年には同じ環境で新しい会議が行われます。
ローマはそこで世界少年合唱連盟を正式に認め、連盟長であるマイエ神父を “教皇聖下の司教” と命名しました。
(つづく)
✩疑問点✩(今回読んだ部分の最初を1行目として数えています)
1行目:Manécanterie
よく出てくる単語です。いつも辞書にある通り(聖歌隊の)養成所と
訳していますが、意味を考えると合唱団と訳しても構わないのかなと
思います。les petits chanteurs~ではなく
La manécanterie des Petits Chanteurs à la croix de boisと
書かれている場合もあるのです。
9行目:qui va bientôt~
さんざん迷った末にこのqui~以下はl'Abbé Mailletにかかる、と
結論づけましたが大丈夫でしょうか。
やっぱりinitiativeかな? いやいやtransformerやélargirをするのは
人ですよね。あ、でもそういうinitiativeという意味かも......。
(ふらふらと迷宮へ)
12行目:créés à leur image
イメージを作るとは即ち、各地の合唱団がパリ木を見て彼らを
自分たちの目標にすると云うか、あんな風になりたいなと
理想を描くという意味でしょうか。
そう訳すとかなりの意訳になるみたいで自信がありません...。
21行目(最終行):"Prélat de Sa Sainteté"
わざわざ括弧で囲ってあるぐらいですから、きっとこれしかないッ
という訳語があると思うのです。
prélatは司教や大修道院長などの高位聖職者を意味し、
Sa Saintetéは教皇聖下という尊称です。
だからといって「教皇聖下の司教」では、
まるで教皇より偉い人みたいではありませんか。
それから疑問ではありませんが、下から4行目のla basilique Saint-Pierreに見事引っかかりました。字面のままに「サン・ピエール大聖堂」と訳して、どんなところかなと検索したのです。すると確かにそういう名の大聖堂が存在しました。でも所在地はスイスのジュネーヴ。
......移転? ローマからスイスまで?
しばらく考えて思い当たりました。これってひょっとしてサン・ピエトロ大聖堂では?
Wikipediaでサン・ピエトロ大聖堂を検索してそのままフランス語版へ飛ぶと......ありました、Saint-Pierreになっています。ピエトロのtはどこに行っちゃったのさと文句を云いながら訂正しました。
もう1つ、la Fédération Internationale des Petits Chanteursについて。
マイエ神父が作ったこの組織は、現在はLa Fédération Française des Petits Chanteursという名称に変わっています。フランスに限定しているようですね。その代わりここを含むもっと大きな団体Foederatio Internationalis Pueri Cantoresがあり、こちらは全世界を網羅しています。
マイエ神父が始めたことが今でも生きているのです。この方は本当に行動派の神父様ですね。
数日に1回の割合で書いているのは、他のお話とのバランスを取っているなどという気の利いた理由ではなく、1回分を訳すのに3日も4日もかかっているからです。今日のは難しかったですよ〜。学習用の教材ではないのに、どうして回を追うごとに難しくなるのでしょう。
原文はこちら、左側のブロックの最初から21行目(1行空くところの手前)までです。
✩試訳(改訂版)✩
マイエ神父は養成所を国境の外へと連れ出します。始めは隣国へ、そして1931年には、その時代としては驚くべき勇敢さで北アメリカへ。
少年合唱団はアメリカ、カナダで熱狂的な歓迎を受けます。これが海外遠征の始まりです。
それ以来彼らは始終世界を巡るようになります。80か国を訪問し、世界ツアーを4回です。
1939~45年の戦争(第二次世界大戦)は少年合唱団にとって、あらゆる人々と同じく、苦しみと死を伴う長い試練の時代です。けれども1945年に再び平和が訪れると、マイエ神父はすぐに少年合唱団の役割を活気づけ、拡大しようと率先して行動を起こします。これらのことは何年も前から、しばしば合唱団が知らない間にライバルを生んでいました。フランスや外国で町から町へと彼らが通過した後、少年合唱のグループは自然に自分たちのイメージを作り出していました。それら新しい “養成所” はマイエ神父に助けを求めていました。
そこで彼は世界少年合唱連盟の設立を決意します。それはすべてのグループを集め、同じ理想に駆り立てられた全少年合唱団に開かれることになります。その動きは大きな広がりを見せ、世界中から参加があります。
1949年、15か国3000人の子供たちがローマに集まります。そこでは教皇ピオ12世が、彼らのためにサン・ピエトロ大聖堂で特別にミサをあげます。1951年には同じ環境で新しい会議が行われます。
ローマはそこで世界少年合唱連盟を正式に認め、連盟長であるマイエ神父を “教皇聖下の司教” と命名しました。
(つづく)
✩疑問点✩(今回読んだ部分の最初を1行目として数えています)
1行目:Manécanterie
よく出てくる単語です。いつも辞書にある通り(聖歌隊の)養成所と
訳していますが、意味を考えると合唱団と訳しても構わないのかなと
思います。les petits chanteurs~ではなく
La manécanterie des Petits Chanteurs à la croix de boisと
書かれている場合もあるのです。
9行目:qui va bientôt~
さんざん迷った末にこのqui~以下はl'Abbé Mailletにかかる、と
結論づけましたが大丈夫でしょうか。
やっぱりinitiativeかな? いやいやtransformerやélargirをするのは
人ですよね。あ、でもそういうinitiativeという意味かも......。
(ふらふらと迷宮へ)
12行目:créés à leur image
イメージを作るとは即ち、各地の合唱団がパリ木を見て彼らを
自分たちの目標にすると云うか、あんな風になりたいなと
理想を描くという意味でしょうか。
そう訳すとかなりの意訳になるみたいで自信がありません...。
21行目(最終行):"Prélat de Sa Sainteté"
わざわざ括弧で囲ってあるぐらいですから、きっとこれしかないッ
という訳語があると思うのです。
prélatは司教や大修道院長などの高位聖職者を意味し、
Sa Saintetéは教皇聖下という尊称です。
だからといって「教皇聖下の司教」では、
まるで教皇より偉い人みたいではありませんか。
それから疑問ではありませんが、下から4行目のla basilique Saint-Pierreに見事引っかかりました。字面のままに「サン・ピエール大聖堂」と訳して、どんなところかなと検索したのです。すると確かにそういう名の大聖堂が存在しました。でも所在地はスイスのジュネーヴ。
......移転? ローマからスイスまで?
しばらく考えて思い当たりました。これってひょっとしてサン・ピエトロ大聖堂では?
Wikipediaでサン・ピエトロ大聖堂を検索してそのままフランス語版へ飛ぶと......ありました、Saint-Pierreになっています。ピエトロのtはどこに行っちゃったのさと文句を云いながら訂正しました。
もう1つ、la Fédération Internationale des Petits Chanteursについて。
マイエ神父が作ったこの組織は、現在はLa Fédération Française des Petits Chanteursという名称に変わっています。フランスに限定しているようですね。その代わりここを含むもっと大きな団体Foederatio Internationalis Pueri Cantoresがあり、こちらは全世界を網羅しています。
マイエ神父が始めたことが今でも生きているのです。この方は本当に行動派の神父様ですね。
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